私・堀 亜砂子の自分史のようなものを、このページにまとめます。
このページは誰にどのような需要があるのか、
果たして読んでくれる誰かがいるのか、
わかりません。
しかし、読者が誰もいなくても、
私自身のためにこのページを書いています。
私のこれまでの歩み。
私のこれからの行き先。
どんなことがあって、
何を感じて、
何を望んて、
何を手に入れて、
何を失って、
それでも今、ここにいる私は、
全ての経験、関わってくれた全ての人、
全ての出来事に感謝しています。
長くなるかもしれませんが、
私のこれまでについて記すページとさせてください。
序章
エンディングノートとは
いつか誰にも訪れる「死」に備えて
自分の情報や亡くなった後の希望などを書き残しておくもの
相続や事業承継を専門にお仕事をさせていただいていて
お客様のこれまでの人生にも
愛と敬意をもって寄り添えるように
自分の人生を振り返ってみようと
思い立ちました…
ちょうど最近、とても信頼する大好きな方に
夏至の日のホロスコープを読んでいただいて
自分の枠を広げていくこと~「限界突破」が
これからしばらくの私のテーマだと
そんなとき
毎日白湯を飲むのに使っていた
マグカップの取っ手がポロッと取れて
これもスピリチュアル的には
「限界突破」的な意味があるとかないとか
いろいろ思うところがあって
これからぼちぼち自分史的なものをしたためてまいります
七夕のあの日に思うこと
自分史というとふつう時系列かな、と思いましたが、
今日は七夕なので、お空を仰いで思ったことを…
ビッグ4税理士法人で猛烈に働いていた30代の半ばごろ
職場の同僚から誘われて何気なく行った「業界学」という勉強会で知り合った3つ年下の恋人がいました。
彼のアパートが私の職場に近いこともあり、そちらで週の半分以上を過ごす毎日でした。
その日は彼が体調不良で珍しく仕事を休むことになり、ベッドに横になっていたので、「行ってきます」と手を取ると、彼は少し目を細めて「優しい手…」と呟きました。
その日も変わらず忙しかったのですが、仕事の合間に電話すると、「よく眠れるよ」と穏やかで優しい声が返ってきました。
そのまま仕事に戻ってバタバタと夜になり
さて帰ろうと思ったときにクライアントから電話があり、対応で帰宅がさらに二時間ほど遅くなりました。
職場を出てスーパーで翌日の朝食の買い物をして帰宅すると、部屋の明かりは消えていました。
「ただいま」と声をかけても返事がなくて、眠ってるのだろうと思い、シャワーを浴びて戻ってみると、ただならぬ気配を感じて…
息をしていなかったか、脈がなかったか、どう判断したか記憶にないですが、明らかな異常を感じたので、
救急車を呼んだり、彼の携帯の履歴から、まだ会った事のない彼の妹に電話したり…
気づいたら病院にいました。彼の家族が車で駆けつけるまでの間、親族でもない私は廊下で待つしかなくて…
後からわかったことですが、私が職場でクライアントの電話を受けた21時ごろ、まさに彼はお空に行ってしまったのだそうです。
結婚を約束した大切な人の突然の死は、当時の私にはとてもじゃないけど受け止めきれないことで…
もう20年以上の時が経つのですが、あの日のことはふとしたときに映像をともなって思い出されます。
それからの日々も含めて、どんな言葉でも表現しきれませんが、救いだったのは自分を責めるような後悔がなかったことです。
あの朝、目を細めて「優しい手」と言ってくれた彼。昼間も「よく眠れるよ」と言って穏やかだった彼。表情からも、最後は苦しまず眠るように逝ってしまったことがわかりました。
当時の私は、思いを受け継ぐ、とか、彼の分まで生きる、なんて気持ちにはなれなかったけど、「彼にいつか(お空で)会うために生きる」とだけ紙に書いていました。
もう20年近く経つことが不思議です。
50代の彼に会って、今の私をほめてもらいたいな、とお空を見上げて思いました。
前へ前への子ども時代
幼稚園時代の神童(?)ぶり
とにかくえらく記憶力がよかった、とよく母から聞かされました。
ある日幼稚園で、先生が読み聞かせてくれた本の内容を、帰宅後に記憶をたどって親に伝え、
親がそれを筆記して提出する、という課題が出たときには、
先生から「亜砂子ちゃんはこのご本を持っているの?」と聞かれたそうです。
わが家は鍵っ子だったので、おそらく若干のタイムラグはあったはずですが、
母の帰宅を待って、次々に登場するいろいろな動物たちの楽しい冒険(?)の物語を
ほぼ完璧に、臨場感たっぷりに母に伝えたようです。
帰宅して親の不在を知り、「忘れちゃうよ〜」と泣いた子もいるなかで、なかなか肝の据わったスーパー園児だったようです。
神童かどうかは別として、物おじもせず、
はきはきとよくしゃべる元気な子供だったようです。
小中学校時代〜演劇と読書
小学校一年生のとき、学芸会か何かで「因幡の白うさぎ」の劇をやることになりました。
出しゃばりな子だった私は、役決めのときに立候補で主役の白うさぎを勝ち取りました。
母の手編みの白いボレロを脱いで、下に着ていた赤いセーター姿になり、
皮を剥がれた痛々しさを表現したことを覚えています。
主役の気持ちよさが忘れられず、
クラブ活動が始まる4年生のときには迷わず演劇クラブに入り、そのまま6年生まで所属、舞台で演じる楽しみにハマってゆきました。
中学3年間も演劇部に在籍し、
文化祭でシェークスピアの「リア王」をやったときは、比較的声が低かったということもあり、
なんとリア王役に抜擢(このときは立候補ではなく)されたりしました。
中学生の自殺をテーマにして、「道化師」というタイトルの脚本も書きました。
演出はもちろん、音楽や照明のプランにも参画し、
自分でも自殺する中学生の父親役を演じるなど、
なかなかやりたい放題だった気がします。
本もよく読みました。
小学校までは、なぜか勧められるがままに「キュリー夫人」「ナイチンゲール」「ワシントン」「湯川秀樹」などなど、国内外の偉人の伝記ばかり読んでいました。
伝記を選んだのはともかくとして、この時期の読書の習慣のおかげか、漢字をやたら覚え、言葉が面白くなってきました。
演劇も楽しくて、話すのも読むのも書くのもすべて楽しくて、小中学校時代に言語能力とコミュニケーション能力が開花して行ったような気がします。
かわいくないと肩身が狭い?の中学・高校時代
高校時代
目立ちたがりで前へ前への子供時代を経て、高校進学と共に、なぜか出来るだけ前へ出ないようになりました。
部活動を決める時、見学に行った演劇部の部員数が、片手で足りるほどで、なんとなく暗めのイメージで、あまり楽しそうに見えなかったので、入部を断念しました。
結局、高校3年間にわたり「英語部」に所属しましたが、いわゆるESS (English speaking society)と呼ばれる華やかなクラブではなく、放課後英単語ゲームをしたり、部員同士でなんとなくおしゃべりをしたり、タイプライターの練習もしたり(!)でパッとしない記憶です。(⌒-⌒; )
憧れの女子大生とバンド活動
当時は女子大生ブームだったこともあり、高校でも特にキラキラとした思い出のなかった私は、女子大生としてチャラチャラしてみたいな、と憧れを抱いて女子大へ進学しました。
ところが女子大と言ってもいわゆるモテ系の私立女子大ではなく、真面目でダサいイメージの国立の女子大だったので、そんなにチャラチャラもできなかったのが現実でした(笑)
入学後は、東大との合同軽音楽サークルに入り、ドラフトみたいな感じで先輩たち(男性)のバンドにvocalとして入れてもらいました。
自宅から往復3時間近くかけて通学していたのでバイトもあまりできず、ステージ衣装を買うお金もなく、化粧っ気もなくブラウスとスカートという真面目ないでたちで、ハードロックやヘビメタ系の楽曲もShoutしたりしていました。
ところで女子大生時代には、とにかくかわいい娘がもてはやされるということをあらゆる場面で痛感したものです。
で、そっち側に寄せるのも簡単ではなかったので、大学の4年間を通して、歌がうまい、とか、面白いヤツ、のポジションを確立することで、消え入りそうな「自己肯定感」を死守していたような気がします。
働き続ける原動力って?
銀行OL時代
可愛いくないと肩身が狭い、と悟った真面目な国立女子大生は、
売り手市場と言われた就職市場でも、それほど売れっ子でもなかったのですが、
無難に大手都市銀行に外為専任職として就職しました。
仕事にはそこそこやりがいを感じ、近隣の支店の同期から頼られることも多く、
大好きな彼氏もいて毎日充実した日々を送っていましたが、
一生をかけるほどの仕事とも思っていなかったことや、
当時のピンク色の制服(ユキトリイデザイン!)を着て定年まで働き続けている自分の姿が想像できなかったことから、
何かしらの専門家としてのキャリア、いわゆる「手に職」を考え始めましたが、具体的に何を目指すのかが定まらず、
お金と数字が好きだったので、なんとなく英文会計を学んだあと、簿記3級、2級、1級と合格するにつれ、自然と税理士を志すようになりました。
税理士受験時代
銀行在職中に税理士試験最初の受験で簿記論合格
銀行退職後に2年目の受験で財務諸表論合格
小さな個人会計事務所で修行しながら
3年目…合格科目なし
4年目…法人税法、消費税法合格
5回目…相続税法合格
…と、足かけ5年かけて官報合格を果たし、ビッグ4税理士法人(※当時は株式会社)に入所後の2000年に税理士登録しました。
ビッグ4税理士法人~外資系事業会社
ビッグ4税理士法人では、金融税務部門に所属し、その後の税務関連キャリアの基礎となるさまざまな経験を積ませていただきました。
この間はまさに修行で、労働時間の面ではなかなかキツく
そのころ割と流行っていた証券化※の税務意見書(英文、和文とも)作成の仕事では、
案件のクロージングスケジュールに合わせて膨大な英文契約関連書類の確認が必要だったこともあり
朝早くから夜中まではもちろんのこと、土日も仕事をするのが常でした。
※証券化(Securitization)…帰属主体(オリジネーター)から原資産を特別目的事業体(SPV)等へ移転させ、原資産から生じるキャッシュフローを裏づけとした、資産担保証券などの流動性が高い金融商品を発行する技術
(ウィキペディアより)
当時は夜食と称して軽く飲んでから職場に戻って夜中まで仕事、などということもありましたが、
激務をこなせた原動力は何だったのかと考えると、とにかく仕事を覚えたい、一人前になりたい、というがむしゃらな思いだった気がします。
その後、このペースで長くは続けられないと思い、外資系事業会社にタックスマネジャーとして転職しました。
憧れのフレックスタイムとリモートワークの環境を手に入れて最初はウキウキでしたが、
海外の同僚とのやりとりもおおく、日本法人にも帰国子女が多い環境の中、留学経験もないドメドメ(純・日本)の私は、
カントリータックスマネジャーとして一目置いてもらえるように、
少なくともなめられることなく、
なんなら「できる女」と思われるように…
「できる女」風のメガネを作りました!(そこじゃない?)
ちょうど視力が落ちてきたからというのもありましたが、
ミーティングのときなどは意識してこちらのメガネ(=仮面)をかけて臨みました(笑)
そんな勘違い(?)の背伸びもしつつ、仕事面ではかなりの経験を積ませていただきましたが
最終的にはかなりのプレッシャーで心身の健康を損ねて職場を去ることに…
自身の仕事の基盤を築いたとも言えるビッグ4税理士法人と数社の外資系事業会社での経験からの気づきは…
「できるやつと思われたい」または「できないやつと思われたくない」くらいの動機で働き続けるのは難しいということ
仕事に対する考え方はさまざまかと思いますが、皆さんはどう思われますか?
離婚~心身を癒した沖縄生活
突然ですが途中をだいぶはしょってぶっちゃけます。
2016年に離婚を経験しました。
心身ぼろぼろ状態を救った再スタートとは?
離婚後、いや正確には離婚へ向かう過程において
折しも仕事での重責から自律神経のバランスを崩しつつあったことと重なって
心身がぼろぼろになってしまいました
組織に多大な迷惑をかけてまで離職を選択し、「もう二度と仕事ができないかもしれない」とさえ感じていました。
そんなある日、ふと目にした税理士会の会報に「任期付き国税不服審判官」の募集記事を見つけたのです。
そのときはさほど重要とは思いませんでしたがなんとなく捨てずにおいて
何かの拍子にふと「挑戦してみっか」という気持ちになり
重い腰を引きずるような感覚で一か月近くかけて応募書類を仕上げ
ポストに投函したのが2015年11月のこと
任期付きとはいえ、国家公務員の職なので書類提出から面接、内定、正式採用まで何か月もかかりましたが、なんとか2016年7月に沖縄への赴任の運びとなりました
なぜ赴任地が縁もゆかりもない沖縄だったのか、については
こちらから積極的に希望したわけではなく
「勤務地を限定しない(=行けないところはない)」という意思表示で応募したところ
たまたまチャンスをいただいたというわけです(ラッキー)
噂によれば、「沖縄に赴任したい」と希望すると逆に叶わないとのことでした(笑)
沖縄での「癒しの暮らし」
沖縄での暮らしは、癒しそのものでした
知り合いがほとんどいない地で、新しい生活をゼロから築くことには少し不安もありましたが、「過去を知る人がいない」という解放感が心地よく、沖縄の自然とゆったりとした時間に、
私は少しずつ癒されていきました。
沖縄に幼馴染がいてくれたことも心の支えとなりました。
自分を知る人がほとんどいない場所で、すべてを受け入れてくれる幼馴染の存在が、
私にとって大きな安らぎと安心感を与えてくれました。
休日の「プチ旅行」やドライブで味わう心の解放
休日になると、石垣島、宮古島や周辺の離島へのプチ旅行を頻繁に計画し、
本島内を気ままにドライブしたり、
ふと見つけたカフェでのんびりとした時間を過ごすことが楽しみになりました。
自然豊かな離島の景色や沖縄ならではの温かな人々とのふれあいは、
心に深く染みわたりました。
心からの喜びを感じながら、ゆっくりと沖縄の風を感じるひとときは、
私にとって何よりも贅沢で、伸び伸びとした時間でした。
国税不服審判官としての日々
国税不服審判官としての仕事は、税務に関する不服申し立てを扱うものですが
米軍基地の消費税関連案件など、沖縄特有の事情や経済背景に触れる機会も多くありました。
内地とは異なる考え方や現地の状況に直面するたび、
沖縄で生きる人々の暮らしに寄り添っているとさえ感じることもありました。
それまで経験したことのない仕事に向き合い
休みの日は旅や人々との交流を楽しむことで心の余裕が少しずつ戻り、
自分が癒されながら成長してゆくのを感じました
ここまで読んでくれたあなたへ〜そして物語は続く
ここまで読んでくださったあなたへ。
お付き合いいただきありがとうございました。
時間を見つけて書き連ねてきた私・堀 亜砂子の自分史は、
まだまだ執筆途中です。
これからもこのページは長く続いていくことでしょう。
またいつか、時間を見つけてこのページを訪れてくださいね。